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屯田郷土資料館

新琴似のおとなり、屯田には屯田兵などの資料を展示している資料館があります。
新琴似や安春川の歴史を知るてがかりになるはずです。

屯田郷土資料館

札幌市北区屯田5条6丁目
 屯田地区センター内


п@011−772−1811

屯田兵の制度  開拓と農業  屯田兵屋  水害との戦い  生活と文化

1.屯田兵の制度
 

 日本では、300年続いた徳川幕府が滅び、明治維新がおこりましたが、各地で内乱が起きて北海道も混乱していました。その中で、ロシアとの間に領土の争いがあり、学者や政治家達は「北海道を守るべし」と屯田兵制度ができました。
 屯田兵の制度は明治7年から明治32年まで行われました。札幌には、琴似兵村、山鼻兵村、新琴似兵村、篠路兵村の順に4つの地域に屯田兵が入りました。
屯田兵の条件は最初、士族であること、17才から35才までの男子であること、15才から60才までの農業に従事できる家族が二人以上いることでした。
 屯田地区には徳島、和歌山、山口、福岡、熊本、福井、石川などから開拓にきました。開拓の人々は輸送船で小樽に入り、小樽から鉄道で琴似まで来て、そこから歩いて開拓の土地まできました。屯田兵には、3年間、扶助米、塩菜料、必要な農機具などが支給されました。

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2.開拓と農業


 屯田兵はむかしは、篠路兵村とよばれました。屯田兵の1日の生活は、起床が夏(4〜9月)は午前4時。冬(10〜3月)は午前5時と決められ、ラッパの音を合図に行われました。
 朝は、兵隊としての訓練。そのあとは農作業。終わってから自分の家の開墾ときびしいスケジュールでした。
屯田兵には、住宅・寝具・農耕具・種子などが与えられ、食料としては3年間米と塩菜料があたえられました。
  屯田郷土資料館には昔使われた農機具(千培機・回転ハロー馬鍬・うねきり機、たこ足直播機、除草機・足踏脱穀機縄ない機・千歯・馬草切り機など)が展示されています。

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屯田兵屋
屯田郷土資料館には、実際に屯田兵が住んでいた屯田兵屋が復元されています。

 屯田兵屋の中は、当時の間取りがそのままで、土間・流し茶の間・便所などの様子もそばで見ることができます。 また、様々な生活用品も展示されていて興味をひきます
 家の中には、家族の模型がおかれていて、ボタンを押すとそれぞれの人の会話を聞くことができます。
 明治40年頃、屯田兵屋の前での記念撮影
 粗末な造りの屯田兵屋ですがその前で家族みんな着飾って写真を撮る姿に当時の人々の意志の強さを感じます

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4.水害との戦い

 屯田の長い歴史の中で、忘れることができないのは、水との戦いです。札幌扇状地のはし、標高2〜5メートルほどの低い土地である屯田では、雪がとけて石狩川の水がはんらんすると、決まって水害に見舞われました。秋の長雨のあとも、排水溝がないむかしは、水害に苦しみました。 特に、明治31年、9月10日の大水害では、村のほとんどが水でうまり、家や食料・畑も失った屯田兵たちは、ふるさとに帰ったり、他の職業を見つけたりしなくてはなりませんでした。
 こうして入植時には、220戸1056人いた人口も、明治40年頃には、72戸555人に減りました。そこで、士工組合の人々が水害で落ち込んだ農業を立て直そうと、新川を通して水を海へ流す大きなかんがい工事を行いました。そのあと屯田地域で、米作りをするようになりました。

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5.生活と文化

 きびしい開拓の生活でしたが、その中で子どもたちの教育にも努力しました。
 
屯田に屯田兵とその家族220戸がやってきた明くる年には、屯田小学校が「長永簡易小学校」として始まりました。3学級、130人の学校で、校長先生は兵村出身の大橋怒一先生。校舎は木造平屋建てで、校舎も校具も陸軍のものでした。早く卒業して開拓の仕事をするため、3年間でした。
子どもたちの遊びには、けん玉・パッチ・どんぐりだし・竹弓・竹馬・輪まわし・お手玉・釘さしなどがありました。
 2階には、ランプ・時計・火鉢・電話・スキー・秤・などなど日常使われていた、古い道具も色々展示されています。

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